僕の家から会社までは、小さな私鉄の電車で約30分です。
都会では考えられないでしょうが、行きも帰りも、ほとんど座って通勤しています。
その電車で帰宅途中、無気味な出来事を体験しました。
その日、僕は部長の誘いで飲みに行き、12時前の終電にようやく間に合いました。
タクシーで帰ると1万円弱かかりますから、とりあえず電車に乗れた事でほっとしながら、座席に腰を下ろしました。
田舎の事なので、終電といっても静かなものです。
どうやらこの車両には、僕一人のようでした。
僕は足を前の座席に伸ばすと、酔いのせいもあって、すぐに居眠り始めました。
何分くらいたったでしょうか。
僕は、小さな声で目を覚ましました。
くすくすと笑う声は、どうやら小さな子供と、若い母親のようです。
子供「ねえ、この電車もよく乗ったよね」
母親「そうね。けんちゃん、電車好きだったものね」
子供「うん。○○駅に行った時はとっても楽しかったね」
母親「そうね、できたら東京駅とか、国鉄の大きな駅にも連れて行ってあげたかったわ」
子供「うん、夜行列車とか、一度乗ってみたかったな」
僕は夢うつつに、親子の会話を聞いていました。
車両は4人がけの座席になっているので、姿は見えませんでしたが、結構はっきり聞こえてくるという事は、すぐ近くのシートにいるのでしょうか。
どこか途中の駅で乗ってきたのかな、と思いました。
母親「けんちゃん。国鉄にはあんまり乗せてあげられなかったものねぇ」
コクテツ、という響きが奇妙に感じました。
JRになってから、もう15年以上経つのではないか。
そんな事を考えているうちに、目が覚めてきました。
僕はそっとシートから体を乗り出して、周りを見回しましたが、親子の姿などこにも見えないのです。
僕からは死角になっている所に座っているのだろうか。
思い巡らしているうちに次の駅に着き、乗降の無いまま発車しました。
また、うとうとし始めると、それを待っていたかのように、親子のひそひそ声が聞こえてきました。
母親「けんちゃん、あの時はこわかった?」
子供「ううん、お母さんが一緒だったもん。ぜんぜん平気だったよ」
母親「でも、痛かったでしょう」
子供「んー、わかんない。でも、大好きな電車だったからよかった」
母親「そう、そうよね。けんちゃんの好きな、この青い電車を選んだんだもの」
子供「あ、もうすぐあの踏切だよ」
子供が、はしゃいだ声を出しました。
僕は、ぼんやりと窓の外を見ました。
カーブの先、田畑の中に、ぼんやりと浮かぶ踏切の赤いシグナル。
その踏切に親子らしい人影が立っていました。
親子は、下りた遮断機を、くぐり抜けようとしているように見えました。
キキキキーーーーーー
と、電車が急ブレーキをかけると同時に、鈍い衝撃が伝わってきました。
そして、僕の座っているシートの窓ガラスに、ピシャっと赤い飛沫がかかりました。
全身の血の気が引く思いで、僕は思わずドアの方へと走ろうとしました。
しかし…座席から立ち上がって、ふと気付くと電車は元通り走っています。
僕の心臓だけが、激しく鼓動を打っていました。
夢か…と、立ち上がったついでに車内を見まわしましたが、やはり誰もいません。
さっきから聞こえてきた親子の会話も、夢だったのかもしれない。
そう思って気を落ち着かせると、一人で車両に乗っているというだけでおびえている自分が、情けなくさえ思えてきました。
「終点です。」
と、車内アナウンスが聞こえ、ようやく電車が本当に減速し始めました。
僕はコートと鞄を抱えて、出口に向かいました。
ホームの明かりが見え始めた時、はっきりと後ろに人の気配を感じました。
何か、ぼたぼたと水滴の落ちるような音も聞こえてきました。
視線を上げ、僕の背後に映った人影を見た瞬間、僕は思わず持っていた物を取り落とし、その上、腰を抜かしてしまったのです。
ガラスに映っていたのは、五歳くらいの子供を抱いた若い母親でした。
母親の左腕は肘から先が無く、胸もずたずたで、その傷口から血をぼたぼたと垂らしていました。
そして右腕で抱き締められている子供は、左半身が潰されて、ほとんど赤い肉塊にしか見えませんでした。
子供は残っている右目で、僕をジッと見つめていました。
その後は、あんまり覚えていません。
へたり込んでいる僕を駅員が引っぱり出し、事務所で冷たい水を出してくれました。
車内の出来事を、その駅員に聞く事はできませんでした。
実際に飛び込み自殺があったと言われたら、おかしくなりそうでしたから。