俺の嫁は俗に言う『みえる人』で、俺は『0感』。
嫁がまだ恋人の頃、見える人である事を俺に明かし、その後しばらくの間『あそこに女の人が居る』だの『今、足だけが階段を昇っていった』だの言い出し、俺が本気で遺憾の意を表明した時から、一切それ系の実況をしなくなった。
山菜採りが好きな俺と嫁は、いつもの如く山道を車で通行していた。
しがない自営業の俺等は、昨今の不況の折に開き直って、平日の昼間に日がな半日程度、山菜採りに精を出していた。
比較的心地よい疲れに伴い、今日の夕飯は何かな、天婦羅はもう暫く要らないなとか思いながらボケっと運転していた夕刻。
自分の車の前を走る、シルバーの軽。
暑い日だったので、前を走る軽の助手席の窓から手が生えて見える。
運転者は老齢であろう。
決して生き急いでないのが見て取れる様に40k巡航である。
ここまではよくある光景で、次のストレートで追い越しかけるかと思っていた。
その矢先、嫌な事に気付いて、しまったと思った。
その軽の助手席の窓から『手』が生えて見える。
『腕』じゃなく『手』。
指まではっきりと認識できる。
巨大な手が、前を走る軽の窓枠をがっちりと掴んでいる。
嫁はともかく、今までそんなものが見えた事のない俺は総毛だった。
すぐさま嫁に視線を移すと、以前はこういう不可思議な現象に対してもヘラヘラ笑いながら俺に実況していた嫁が、目を見開いて硬直している。
常時見えている人間にとっても只事では無い事例であろう事が、0感の俺にも容易に推測できた。
そして、その『手』はこちらの熱視線に気付く風でもなく、新たな行動をし始めたのだ。
その『手』は、掴んでいた窓枠を離し、にゅーっと虚空に伸び始めた。
その手首には、タイの踊り子の様な金色の腕輪が付いている。
肘が車外に出ても伸び続け、肩の手前位まで車外に出した。
とんでもないでかさ。
そして、やにわに自分が乗っている軽の天井を叩き始めたのだ。
「ぼん、ぼん、ばん、ばーん、ばん、ばーん」
という音が、すぐ後ろを走る俺等にも聞こえてくる。
そのときの俺はというと、目の前で起こっている映像に脳の認識がついていかず、ただそのままぼーっと軽を追従していた。
「停めて!!!」
嫁の悲鳴交じりの声が、俺に急ブレーキをかけさせた。
前輪が悲鳴を上げ、前のめりのGを受けながら俺の車は急停止した。
今まで眼前にあった、自分の車の天井を叩き続ける巨大な手を生やした軽はゆっくりと遠ざかって行き、その先のカーブから見えなくなった。
夕暮れに立ち尽くす俺の車。
嫁は頭を抱え、小刻みに震えている様にも見える。
俺も小便がちびりそうだったが、努めてなるべく明るく嫁にまくしたてた。
「なんだよ?お前いっつも笑って解説してたじゃん。あんなのいつも見てたんだろ?今回、俺も見えたけど、すげえなあれは。」
暫くの静寂の後、嫁が口を開いた。
「・・・・・あんなの、初めてだよ。・・・・アンタは、気付かなかったろうけど。」
「なにがよ?」
「あの腕。邪悪な感じがしない。かなり上位の存在だよ。」
「・・・じゃあ良い霊とか、神様じゃね?運転手が悪い奴で、なんかそんなんじゃないの?」
「そんな訳無い、絶対におかしい。あんな上位の存在が、あんな行動するわけがない。やっている事は悪霊そのもの。だけどあの腕は光に包まれてた。分からない。自分の無知が怖い。・・・怖い。頭がおかしくなりそう・・・」
嫁の話を聞いていると、俺も頭がおかしくなりそうだったので、わざわざUターンしてその現場から離れ、実家には帰らずに居酒屋に直行、二人で浴びるほど酒を呑んで近くのビジホで一泊した。
あの手は一体何だったのか、俺は未だに全く理解できない。
ただ、あんな体験はこれっきりにしたいもんだと、心底思った。