その1
硫黄島勤務になった自衛官に、霊感が強い人がいました。
ある夜、その方がむくっ!と起き上がり、フラフラと外へ。
同室の方が声をかけるも反応無し、まるで夢遊病者のように歩き続け、あるところでばったり!と倒れたそうです。
意識が回復してから、何があったのか尋ねると、
「誰かに呼ばれた気がする……。」と。
その方の霊感ぶりは有名だったこともあり、倒れた場所を掘ったところ、遺骨が見つかったそうです。
その霊感青年以外にも『呼ばれた』隊員により、何柱かのご遺骨が見つかっています。
その2
外来宿舎に金縛りやポルターガイスト等、必ず怪現象が起こる部屋があります。
私たちが行った時、人数の都合で自分ともう一人がその部屋に泊まることになりました。
怖いのが嫌というより、亡くなってまで苦しんでいるのではと思い、詳しい作法などは知りませんでしたが、きっと喉が乾いただろうな、甘いものが欲しかったかな、お酒が飲みたかった人もいたかな、と、本土からミニボトルの日本酒、六甲水のペットボトル、飴玉を持っていき、窓の下に盛り塩と一緒に供えて、
「暫くこのお部屋をお貸しください。もしも、本土に戻られたい御魂がいらっしゃったら、窮屈かと思いますが、この中にお入りください。皆様の故郷にお返しすることはできませんが、この半分を○○県の△川に流します。半分はこちらに置いていきます。」
と、念じました。
心配されていた私の部屋では何も起こりませんでした。
が、夜中、隣の部屋から悲鳴とガターン!という騒音が。
聞くと、ベッドを下から蹴られたような感触があり、一瞬浮いたようだったとか。
明かりをつけると、ベッドの位置が引きずった跡もなく、思い切りずれていました。
それから後、夜は何事もありませんでした……。
その3
医務科壕という、傷病者を治療するための壕に案内された時のことです。
入り口にポトスが自生する、一見のほほんとした場所なのですが、硫黄島戦では足の踏み場もないほどに傷病者が寝かされ、本土からの援助も絶え、満足な治療も受けられず亡くなっていった方が多かったそうです。
医務科壕は天井が比較的高めでT字型に掘られており、他の塹壕よりも少し開放的な雰囲気がありました。
(他の塹壕の殆どは地中に掘られており、地熱でサウナ状態です)
「ここから雨水を取り、ドラム缶に貯めていた」等の説明を受けていた時、足元の方から、苦しいような、熱いような、閉塞的な感覚が伝わってきました。
「ここ、地下があった、なんてこと、ないですよね?」
試しに尋ねてみたところ、説明係の海曹がぎょっとした顔で、
「地下があったらしいと聞いています。」と。
……下に降りる階段が見つからないのだそうです。
今も。
他の壕では『平成○年○月、調査ここまで』と書かれた紙が貼られていて、その先が落盤している場所などを目にしました。
遺骨収拾も、まだまだ進まないようです。
その4
横須賀の教育隊に行ったとき、所属していた隊の分隊士が語ってくれた。
分隊士の同期の人が硫黄島に行ったときね、お供え物の一品としてタバコが置かれてあったんだって。
そのタバコを、その同期の人は失敬してもらっちゃった。
まぁ、まだ硫黄島に着隊したばっかで間もないし、軽々しく考えてたんだろうね。
その夜、その同期と一緒の部屋で寝ていた隊員は、隣から聞こえる呻き声がうるさくて目をさました。
案の定、タバコを失敬した同期がうなされてる。
そいつを起こして何があったか聞いたところ、
「寝ていたら急に胸が重くなって、目を覚ました。そしたらさ、軍服を着た日本兵が『俺のタバコを返せ』って口の中に手を入れてきた」
と真っ青な顔で答えたとのこと。
戦地とは比べ物にならないけど、俺も山にこもって数ヶ月訓練してたから分かる。
異性の居ない山奥で、自由を剥奪されて体を酷使する毎日。
嗜好品は唯一の慰めだね。
甘いもの。
水分。
本や写真。
人によってそれぞれ。
俺は吸わなかったけど、煙草の一服を心の糧にしてた班員も居たよ。
その5
硫黄島の戦い終盤には、西戦車中隊の95式軽戦車、97式中戦車は殆ど破壊されて残っていなかった。
擱坐した米軍のM1シャーマン戦車の75mm砲を使って、しばしば反撃した事は生き残った人間の証言からわかっている。
それよりも自衛隊スレのオカルトのところにすごい話が載っている。
硫黄島勤務の自衛官は度々英霊を目撃しているのだが、ある自衛官が『加藤隼戦闘隊』のビデオを一人で見ていたら、
「いいものを見せてくれてありがとう」
と言う声が聞こえたそうだ。
あ~今、英霊が来られてるんだ、と感じたその人は、テーブルの上にビールとタバコを置いて供養したそうだ。
その後、本土に帰隊した後、宝くじを買ったところ・・・なんと1億円あたった。
うそみたいな話だけれど、自衛隊の中では有名な本当の話だ。
その人は、今でも英霊が引き当ててくれたと信じている。
その6
B大の3学年には硫黄島研修と言うのがある。
愛国心を高めるために悲惨な激戦地の戦史を勉強する為にね。
俺が聞いた話では、硫黄島の石を持って帰ってはいけないと言われていたのに、隠して持って帰って来た学生が帰って来て3日目の朝の点呼の時に出てこなかった。
週番が調べに行くと心臓麻痺で死んでいたそうだ。
で、B大に伝わる怪談はここから始まるだが・・・
その死んだ学生のベットをそのまま使っていたらしい・・・
そのベッドで寝ていると、とにかく金縛りにあう。
それでベッドを替えてくれと指導教官に頼むと、教官はやっぱりそうかって顔をしてすぐに変えてくれる。
と言う噂を話を聞いた。
ちなみに、俺は半年で辞めたから本当の理由があると言う話は聞いた事がない。
その7
元海自で潜水艦勤務経験者の主人が、硫黄島に行ったことがあると話していたので日曜日の朝っぱらから聞いてみました。
砂持ち帰りダメな理由は、
「昔、沢山の方が亡くなっているから・・・」と。
もっと詳しく聞こうとしたら、すごく嫌がってました。
「砂って何色?砂にホネとかまじってるの?」
とたずねると、砂はふつうの砂浜の色との事ですが、ホネ以前に
「・・・怨霊とか、そういう問題」
との事で、すっかり黙り込んじゃいました。
検疫とか放射能ではなくて、マジにオカルトな理由との事です。
ちなみに主人はあまりオカルト信じたくない人間ですが、あんまり聞くと怒り出しそうな感じでした。
それから小一時間問い詰めたら、国家の機関が堂々とオカルト認めるのは立場的に云々・・・
でも世の中には科学で説明のつかないこともあるっていうのも、かなりの隊員が経験しているので結果的に、
『もちかえると、根拠はわからないが、不思議とよくないことが実際に起こる』ので禁止との事です。
話している主人の顔が真っ青で、こっちの方が怖かったです。
どれだけ怖い事なのか、よく伝わったので・・・
その8
YS-11M機上整備員です。
実体験ですが、数年前の夏、無事に定期便も終わり硫黄島から厚木の帰り便。
大きな荷物もなく便乗者は海保職員1名。
天候晴れ、風微風。
定刻に離陸なのですが、いつもより滑走距離が長い。
Pも変だなーという顔。
夏の日差しの機内は程よい温度で、弁当の後やることもないので機内でお昼寝。
しばらくして人のざわめきというか、ひそひそ声でふと目が覚め、機内を見回しても海保さんが寝てる姿しかない。
改めて寝直すと、
「これで国に帰れる」
「友軍機が来てくれて助かった」
とはっきり。
流石に目が覚めて、後部貨物室を見回してもなにも。。。。
海保さんも、やや青ざめた顔で、
「聴きましたか?」
と、2人そろって前に逃げ込んでPにその事を報告。
Pが、
「それで重かったのか、お盆も近いし」と。
その後、何事もなく厚木に。
機体点検をしてると耳元ではっきりと、
「連れて帰っていただき有り難う御座いました!」
その9
こういう話も。
YS-11Mはもうよぼよぼの機体で、あっちを直すとこっちが壊れるというような機体で整備員泣かせですが、厚木から向かった機がハイドロ漏れを起こしどうやっても治らない。
Pと硫黄島管制が、戻るか戻らないかという話を始めた少し後に漏れがぴたりと止まった。
この状態ならと言うことで硫黄島に到着。
エンジン部分を開けて点検をすると、当該ハイドロポンプの漏れていた配管箇所に手の跡がくっきりと。
このときのPは、霊の類は信じない人でしたが、それ以来、硫黄島に行くたびに慰霊碑に手を合わせるようになったそうです。
その10
まぁ、書くか。
YS-11Mの機上整備員です。
週1の定期便(硫黄~南鳥)で行くのですが、偶に山の上で手を振ってる人がいるんですよ。
硫黄の隊員かなと思ってたのですが、
「先輩、いつもあの山の上で手を振ってくれる人居ますね!」
「あ、お前も見たのか。。。。。下に降りたらローマスにその話してみろ。」
ロードマスターに上記の話をしたら、どうも旧軍の霊らしいと。
日の丸を見て友軍が来たと歓迎してくれてるようだと。
その翌日に鎮魂碑に手を合わせてから見ることが無くなりました。
今も定期便時(厚木→硫黄)は、内地から和菓子、水、酒、弁当を1組積んで飛んでいきます。
こういう話も。
有る定期便が硫黄に向かうと天候悪化で滑走路が見えず、もう1度トライしてだめなら帰ると言うときに硫黄の滑走路端に灯りが見え、無事にタッチ。
Pが礼を言いに行くと、誰もサーチライトとかを付けてないと。
その11
昭和天皇の話だが、幽霊島になってた硫黄島に慰霊に訪れたら何処からともなく万歳三唱が聞こえてきて、以降幽霊がパッタリ出なくなったっていうのは聞いた。
その時に御読まれになられた俳句。
精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき(天皇陛下)
慰霊地は今安らかに水をたたふ如何ばかり君ら水を欲りけむ(皇后陛下)
その12
■硫黄島の高松宮殿下
『高松宮日記』全八巻の完結を前に『This is 読売』一、二月号に連載された高松宮妃殿下と作家の阿川弘之氏の対談の中に、初めて紹介されるエピソードがある。
昭和四十六年三月、高松宮殿下が硫黄島戦跡をご訪問になった時のことである。
硫黄島は大東亜戦争末期、米軍七万五千の猛攻を、二万余の日本軍将兵が祖国防衛のため、一ヶ月以上に渡って奮戦し玉砕(全滅)した島である。
戦後、昭和四十三年まで米国の管理下にあったため、殿下のご訪問当時は、まだ未整理の洞窟があり、遺骨はそのまま散乱していたという。
殿下が先ずお訪ねになったのは、米軍の火焔放射器でやられ、ブルドーザーで生き埋めにされかけ、苦しみもがきながら脱出を試みた兵隊たちが、折れ重なって死んだ跡地だった。
「前もっての説明何もなしで洞窟の前へ立たれた殿下は、ハッと息を呑む気配をお見せになり、やがて地べたに正座し、両手をついて首を垂れて、暝想状態に入られた。一言もおっしゃらないから、何を念じていらっしゃるのか祈っていらっしゃるのか分からないけれど、随行の者みな、電気に打たれたような気分だったと聞いております。大分長い時間そうしていらして、やっと立ち上がられた」
次にお訪ねになったのは、遺骨の整理が既に済んでいる壕だった。
とはいえ、拾い尽せなかった骨もあり、至る所に散らばったままの骨片もあった。
仕方なしに海上自衛隊駐屯部隊の隊員も、ふだんは靴で遺骨を踏んで歩くようになってしまっていたという。
「ところが、殿下はためらわれた。そうして、つと靴を脱ぎ靴下も脱ぎ、素足になって、骨片の散らばる洞窟内へ入って行かれた。私も知ってますが、硫黄島という名前の通り、あの島の壕の中に地面から硫黄のガスが噴き出しているんです。そこを素足で視察した人は、後にも先にも高松宮様お一人だそうです」